グローバル教育
アジアメディカルセンター 代表/デューク大学 - シンガポール国立大学ジョイント医学部大学院 尾崎 美和子 氏

人間とは何者か~脳科学から見えてきたもの~

はじめに

私は脳科学分野で研究をしてきましたが、その原点となっているのは、子どものころに抱いていた「人間とは何者か」「自分とは何か」という疑問です。脳は、思考や感情だけでなく、体の機能や動きの司令塔という重要な役割を担っています。現在は、この脳や神経のメカニズム解明にあたり工学的手法を利用する「神経工学」という分野の研究に取り組んでいます。自ら選んだ研究を継続しつつ、大学で教鞭をとり、シンガポールでは縁あって研究所や企業の立ち上げに関わり、並行して子育ても経験し現在に至っています。

脳科学研究への道のり

高校卒業後、一旦経済学部に入学しましたが、研究者を志し、薬学部に入学し直しました。大学院では、分子生物学や細胞生物学の先端領域であった白血病研究や遺伝学の研究に従事し、博士号取得後、脳科学へと進みました。そこでは、人間の思考について哲学的な、あるいは心理学的な解釈を与えるのではなく、脳と神経を完全に「もの(物質)」「メカニズム」として解明していく研究に携わりました。脳神経系で起きている現象を物理化学的言語で理解していくことにより、脳神経系に起因する病気や障害の治療につなげていくことが可能になるのです。

例えば、脳信号を人工的に変化させる治療法があります。パーキンソン病治療が有名ですが、震えが止まらず寝たきりの患者さんが、脳のほんの数か所の特定部位に電気信号を送るだけで体の震えが止まり、体を普通に動かせるようになります。電気信号を送る器具は小型化しており、体に埋め込むこともできるため、生活の中で病気を意識することなく、病気になる前と同じ生活ができるようになります。これは「病気を根本的に治す」治療ではなく「症状を抑えるための」治療ですが、患者さんにとってもご家族にとっても、生涯寝たきりで過ごす状況を劇的に改善することができるため、生活の質が格段に上がります。

また、運動障害の患者さんだけでなく、統合失調症やうつ病など「心の病」と呼ばれている精神疾患にも同様の手法や先端技術を用いた治療や症状の改善が期待できるようになってきました。今後は、病気や障害を引き起こす脳の責任部位を疾患別に特定していくことで、さまざまな病気や障害への治療応用が可能になるでしょう。残念ながら日本ではこれらの治療のほとんどはまだ保険対象外ですが、海外では既に一般的になっている国もあります。今後更に研究実績を重ねていくことで、健全な形での治療として普及してほしいと思っています。

「病気」とは、本質か単なる現象か

人間の行動や態度についての「どうして?」という疑問は、考えても堂々巡りになりがちで、しばしば深い悩みからなかなか抜け出せないものです。しかし科学的には、特定の行動や思考は単なる物質の量的質的変化の結果という「現象」にしか過ぎない、と捉えます。つまり悪い行動や態度が表面化しても、その「ヒト」が本質的に100%悪いのではなく、ある特定の物質的状態が優勢である「現象」として理解します。その量的質的変化が、一定の範囲内で常に揺らいでいるのが「ヒト」であり、その一定の範囲を超えた状態がいわゆる病気で、もとの範囲内に戻すことが治療です。揺らぎを持つ一定の範囲(幅)は、疾患により異なり、精神疾患はその範囲が広いと言えます。健常者とそうでない「ヒト」との境界線をどこに引くのかは、専門家の間でも議論が分かれています。

昨今では、落ち着きがない、学習速度が遅いなどの理由から医療機関で診察を受け、まだ低学年の内に「注意欠陥、多動性障害(ADHD)」「学習障害(LD)」どの診断名がつくケースが増えています。これらの障害は、現状では問診やチェックリストなどによる診断で、客観的な数値データで測れないために当然その診断の幅にも差が生じ、実際には「病気」の括りに入らないお子さんもいらっしゃると思われます。特に幼いお子さんの場合は、「言いたいことがうまく伝えられない」というストレスが大きいと、その不満を行動によって表現してしまうことがあります。この場合、その状態を単なる傾向あるいは一時的な現象(ゆらぎの範囲内)としてとらえることができます。子どもが「悪い子」「困った子」なのではなく、「今はたまたまこの行動が引き起こされている」と視点を変えてみると、必要以上に悩み感情的になることなく、落ち着いて対応ができ解決策を見つけやすいと思っています。

 

「科学者」という仕事について

日本で「理科離れ」が叫ばれて既に久しくなりますが、私の実感としては日本のお子さんたちが「理科離れ」しているという印象はありません。元来、子どもは周りの世界への好奇心が旺盛ですし、実際に子どもたちと接すると理科をとても面白がります。決して理科そのものが嫌いになっているのではないと感じます。

ところがいざ進路を選ぶ年齢になって理系の研究職を選ぶ人が減少していることは、残念ながら事実です。この状態が更に続く場合は、今後日本の科学が衰退していく可能性は否めません。学生が科学者という職を選ばない理由は単純に、日本では一般的に「将来性がない」と思われているからでしょう。科学者のキャリアパスとは、「大学の昇進ルートにのること」がすべてのように思われており、同じ大学で同じ分野の研究を長年続けて第一人者になっていくことが、より正しい道とされてきました。結果として職を得にくく、収入もあまり期待できないのが現状です。

さらに、日本では研究を支える経費のほとんどが政府系予算です。研究費は政治的な影響を強く受けます。さらにそこに審査評価が公正に機能しないことがしばしばあります。結果、本当に世の中に必要な研究に対し予算が手当てされず、研究費欲しさに実のない研究を実があるように見せかけたり、努力して出した成果に対して公正な評価を得られなかったりという事態が生じます。この「仕組みの欠陥」が、科学者を目指す若者の志や可能性を削いでいるとも言えるのです。

一方、海外では、博士号取得後に研究者が政府や企業の研究施設、他大学の研究所を渡り歩きながらキャリアを重ねることで多様な刺激を受け、イノベーションが起こっていきます。中には研究成果をもとにビジネスを立ち上げたり、企業とタイアップして製品化したり、ということも非常に一般的です。


シンガポール国立大学(NUS)、 シンガポール国立神経科学研究所(NNI)などの 研究者&技術者仲間と共に(中央後方、2015年5月)

日本人の保護者の方へ

私はこれまで日本、米国、シンガポール、中国で研究をし、さまざまな国籍の人と仕事をしたり、指導教官として教えたりしてきました。日本人は平均的に一定以上の能力があり、また「良い仕事をしよう」というセルフモチベーションが非常に高いと感じています。ところが仕組みが機能していないために個人の力が生かされにくいのは非常に残念なことです。今後、前述したような日本国内の構造的な問題を改善し、次世代の科学者たちがいきいきと創造的な研究に取り組めるよう、意思を同じくする科学者仲間と協力して、改善に向けて取り組んでいきたいと思っています。

これから世界で活躍したいと考えている人には、1)言語を超えた基盤となる専門性あるいは何らかの知識やスキル、2)議論に慣れ、反対意見を言われても決して人格否定をされたように感じず、論理的に話し合えるスキル、3)仕事ができるレベルの英語力を身につけて欲しいです。シンガポールには学べる環境が豊富にありますので、積極的に機会を活かしていただきたいと思います。

脳の発達過程において、能力を獲得する上で適切な時期があります。その時期は、絶対音感、言語、運動などによって時期が異なり、脳の発達の「臨界期」と呼ばれています。単に記憶する学習というより体で覚えるような学習を一定の年齢までにした場合、一度は忘れても、その後再び同じ学習をした時に速く習得できるということが分かっています。これは、脳の中に一度その回路ができ上がると、そのエリアが脳の中に存在し続けるためです。語学に関しては、特に3歳くらいまでに無理のない範囲でさまざまな言語に触れて、耳が捉える音の種類の幅を広くしておくことは理にかなっています。また、ネイティブスピーカーに近い発音を習得したい場合、5~6歳前後をピークとしてその後は習得力が落ちていきますが、脳神経には可塑性(かそせい)と呼ばれる柔軟性があるため、何歳になっても習得能力がなくなるわけではありません。

このようなお話をすると、早期教育に傾倒していると思われるかもしれませんが、私自身は子どもと真剣に遊び、子育てをとにかく楽しみました。今、海外で生活されている保護者の皆さまにも、ぜひお子さまと過ごす時間を存分に楽しんでいただきたいと思います。そして、もしお子さまが科学者を目指すのでしたら、広い世界とのつながりや社会への貢献を考えながら、国内外で活躍の場を広げていかれるように願っています。

脳科学にはまだ解明できていないことが限りなくあります。子ども時代からの疑問であった「人間とは何者か」という問いの答えを模索しながら、今後も地道に研究を続けていきたいと思います。そして良い研究が評価され、医療現場で生かされていくことで、開発された治療法がすべての人に無理なく利用してもらえる、そんな「健全な医療の提供」が実現するような活動にも力を注いでいきたいと思います。

 

※2015年11月25日現在の情報です。最新情報は各機関に直接ご確認ください。

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